我が国における体外受精の誕生から50年・当時の北里大学学内新聞記事からの検証 職場を替わるたびに持ち歩いていた昔の段ボール箱を久々に開ける機会があり、古い実験ノートの間から、半世紀前に発行された北里大学畜産学部(現在の獣医学部)の学内新聞「馬放平*」を見つけた。これを読み返して、設立されたばかりの畜産学部に入学し、7年間を過ごした十和田キャンパスの懐かしい情景を思い出した。 この中に、豊田裕先生がアメリカ留学から帰国して北里大学に赴任され、家畜育種繁殖学教室を立ち上げて学生の指導と研究を開始した当時のインタビュー記事が載っていた。それを読むと、先生の学生教育に対する並々ならぬ情熱と細やかな心遣い、そして研究者として世界の第一線でしのぎを削る熱い意気込みが伝わってくる。さらにこの記事の中に、教室の研究紹介として、「哺乳動物(現在は実験動物)の体外受精に関する研究を行っているが、我が北里大学育種繁殖学教室が我が国では初めての試みとして注目されている。(中略)現在マウスでは成功しており徐々に家畜へ移行する見込みで見通しは明るい。」との記載がある。関係者以外にはあまり知られていないかもしれないが、我が国における哺乳動物の体外受精の最初の成功例は、豊田先生によって十和田市の畜産学部でなされた。このことが活字として公表されたのは、この馬放平の記事が最初なのではないだろうか。初めて体外受精に成功した正確な年月日の記述はないが、先生が畜産学部に着任されたのが1968年10月で、この馬放平の発行が1970年2月18日だから、その間の1969年中ではないかと推察される。まさに今年(2019)は、ちょうど50年の節目となる記念すべき年である。ちなみに最初の学会発表は、1970年4月の第11回哺乳動物卵子談話会(現在の日本卵子学会)と第56回日本畜産学会大会で、論文発表は翌年の1971年6月である。 豊田先生が、居室の片隅で始められたマウスの体外受精は、いまや我が国では、凍結保存や初期胚操作などの技術と組合わされて、生殖工学や発生工学と呼ばれる重要な研究領域を創成するまでに発展している。さらに動物種は、実験動物や家畜のみならず、ヒトの生殖補助医療としても不可欠な技術として、大きな貢献を果たしていることは広く知られているとおりである。 半世紀ぶりに見つけた「馬放平」で、今年が、我が国で体外受精が誕生して50年目となる記念すべき年であることを検証できたので、執筆者の許可を得て、ここに転載させていただくことにした。ご一読いただければ幸いである。 最後に、記事の転載をご承諾くださった、当時の新聞委員会委員でこの記事を執筆された斗沢清氏に深謝いたします。また、本稿を校閲していただいた豊田裕先生に厚く御礼申し上げます。(2019年2月12日記) *馬放平(うまはなしたい):畜産学部の学生同好会・新聞委員会が定期刊行していた学内新聞。名称は、十和田地方が馬産地だった昔、大学の場所が馬の放牧場であったことに由来している。 1970年当時の北里大学畜産学部(現在の獣医学部)の校舎。これらの建物はすべて建て替えられて残ってはいない。 「馬放平」のなごりが感じられる当時の十和田キャンパスの冬景色。 馬放平:研究室めぐり③
育種繁殖学教室:助教授 豊田裕(農学博士・東京大学)、助手 福田芳詔(農学士・東北大学)、研究補助員 金沢節子(三本木農高卒) いつ行っても沢山の学生がいる教室。ディスカッションに余念のないそんなにぎやかな研究室に我々は訪れた。まず豊田先生が出てこられ心易く応対していただき、原稿を書く側として感謝にたえない。終始一貫した先生の折り目正しい応対に我々もしばし圧倒され気味で、学生時代武道(剣道)に励まれたことを肌で感じさせられた次第である。 では本論に移ろう。豊田助教授の学位論文(昭37)は排卵数の決定機構について、具体的に説明するなら動物種によって生まれる子の数が異なるが、それはどのような機構で決定されるのかをネズミを用いて研究された。特に代償性肥大、つまり片方の卵巣を除去すると残された卵巣が二つ分の働きをするという現象を手掛かりとして、脳下垂体からの性腺刺激ホルモンと卵巣から分泌されるステロイドホルモンとの間のフィードバック機構と排卵数との関係を明らかにされた。その後、東北大学農学部家畜繁殖学教室に勤務され六年間学生の実験実習の指導をされ、かたわら研究面では主に性周期の同期化すなわち動物の発情を一斉に起こさせ同時に種付けして生産させる研究に従事された。具体的方法の一例として上げるならば、話題になっている経口避妊薬と同じような黄体ホルモン誘導体を用いて牛の性周期を支配する方法で、これを研究された豊田助教授は我が国で初の試みの一環になられたわけである。昭和四十二年ボストン近郊にある性ホルモンの研究で名高いウースター実験生物学研究所に留学され、一年間生殖生理学の基礎的研究、特に哺乳動物の卵子の体外受精について研究された。研究成果はただちに世界的科学雑誌であるネイチャー誌上に発表され研究者間の話題を呼んだ。帰国後、一昨年十月北里大学畜産学部育種繁殖学助教授として着任された。現在教室の研究の主眼は学問的に興味のある事柄と実際的な畜産に役立ちうる事柄、この二つの研究の融和にあるといわれる。まず前者として哺乳動物(現在は実験動物)の体外受精に関する研究を行っているが、我が北里大学育種繁殖学教室が我が国では初めての試みとして注目されている。それは炭酸ガス培養装置を用いて試験管内で精子と卵子を結合させるもので培養条件の検討が今月の課題となっている。現在マウスでは成功しており徐々に家畜へ移行する見込みで見通しは明るい。教室内の雰囲気の明るさはこの辺にも原因があるようだ。将来、この研究を基にして種の異な動物間の体外受精による新しい雑種を作り出すことが研究室の一つの夢であるという。実際面の研究としては性周期の同期化(前述)についてであり、人工授精の関連において数多い研究課題を提供している。すでに豚を用いての研究計画が立案され、今年より始まる予定である。 福田助手が東北大学家畜繁殖学教室において学士論文として研究されたことはラットの胚発生に及ぼす抗甲状腺剤の影響で、卒業に際しこの成果を日本畜産学会大会で発表されたことが注目に値する。研究の動機としては、竹内東北大教授の受精卵着床の研究に興味を持たれたからだそうである。その時の想い出として、抗甲状腺剤の懸濁液をカテーテルを用いてラットに経口投与する時に癖の悪いラットにカテーテルをかみ切られたり指をかまれたりしたことが今では懐かしい経験であったといわれる。その苦労の甲斐あってか、カテーテル取扱いのプロフェッショナルとなられその腕前は確か。やはり学問研究に王道なしというべきか?この研究によって自分で一から十までやったという満足感に加えて、育種繁殖学研究に対する自己の自身を深められたようであった。趣味として園芸をやっておられる。長きにわたる庭のない下宿生活が残念そうであった。研究室内でも学生と一体となって取り組んでおられるその様子は、若さあふれる良き指導者といった感じで好感が持てた。 美人の誉れ高い金沢夫人は、設立と同時に畜産学部に勤務し、研究棟でSS培地のテストや鯨肉エキスづくりに一生懸命励まれ、その面では一流のテクニシャンとの定評がある。豊田助教授の着任以来新しい研究室に移り仕事の内容もがらりと変わったにもかかわらず、持ち前の仕事熱心で教室全体から信頼されている。 育種繁殖学教室の学生諸氏の研究テーマは大きく分けて二つに分類されており、一つは配偶子の受精能に関するもの、もう一つは家畜(牛及び豚)の分娩間隔に影響する要因について主に野外実態調査である。しかし学生が自分のテーマを選ぶに当たっては可能なかぎり学生の自主判断にまかせ、その上で指導助言を与える配慮がなされているので卒論の内容は多岐にわたり、最近世間をにぎわせたグルタミン酸ナトリウムの性成熟に及ぼす影響について、研究に取り組んでいる学生もいる。国際的視野の広さもこの教室の特徴とみうけられ、すでにブラジルで研修中の学生が近く帰国予定、入れかわりに北アメリカに研修に出かける学生との歓送迎会の準備に忙しそうであった。卒論専攻生は八名の多さをかぞえ、それに他の研究室の学生も加わって連日ディスカッションに花を咲かせている。というのも研究活動に並行する一連の活動、中でも研究室内の親睦には研究同様に力を入れているからであり、全員が学生生活を十二分にエンジョイしている様子である。思い出深い行事としては五月弘前での観桜コンパや夏の三陸での交歓会があげられ、我々としても羨望の感を一層深め大いに魅力を感じた次第である。これには講義や研究にみられるように豊田助教授の大学や学生に対する考えが現れているように思われる。 北里大学について豊田助教授に話してもらった。「まず第一に、創立期の大学の良さが学生によくあらわれているように思う。その一例として学生と教職員との間にへだたりがなく、一体となって建設しようとする意欲に溢れている。まだ不備な点が多くみられるがともに前進しようとする意気を特に喜ばしいと思う。これを畜産学部の伝統として残していけば素晴らしい。古い大学では容易に見られぬ利点である。このような一体感が当学部において大学紛争の素地がないとはいえぬにもかかわらず相互の不信という形で爆発しないゆえんではないか。」 最後に学生に対して「先生の研究によせる真剣な態度が学生に対し無言の感銘を与えるものである。これは恩師である星冬四郎教授の薫陶を受けて今日に至った自分自身の経験に基づくもので、私としては最良の教育効果であると信じている。学生諸君もただ講義室で受動的に講義を聞くのではなく、積極的に問題をぶっつけてもらいたい。かえってこちらが教えられることもあると思うが、私は教えることは教えられることだと思っている。幸い、本学部には高校時代受験勉強に心身をすりへらし最早学問的情熱を失ってしまっているような学生は見当たらないし、教える側にも若いスタッフが沢山いるのだから大いに切磋琢磨さることを希望する。」 (馬放平:昭和45年2月18日発行から転載)
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